▼大河内神社・志等美神社▼ - 2012.03.17 Sat





上社の鳥居をくぐると右手に二つの玉垣に囲まれた社殿が見えてきます。
手前は末社・打縣神社、奥にあるのが摂社・志等美神社と大河内神社になります。
中世には廃絶し社地の選定ができず、しばらく外宮宮域内の岩戸坂に祀られていました。





大河内神社は大山祗神(おおやまづみのかみ)となっています。
久久能智神は木の神で大山祗神とともに宮川堤防の守護神として祀られ、志等美神に従五位下、 打懸名神・大河内神に従四位下の神位が奉じられました。
神宮摂末社の中で神階のあるのはこの3社だけです。





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▼打懸神社▼ - 2012.03.13 Tue
▼清野井庭神社▼ - 2012.02.22 Wed





神社のすぐ裏側には清野井児童公園があり、とても地域に密着しているようです。
外から見る感じでは豊受大神宮摂社としては小さい印象を受けますが、境内に入ると数本の巨木が立ち外削の千木で造られた社殿は外宮摂社の風格があります。





御祭神である草野姫命はこの地の灌漑用水の守護神であり、屋船神の分霊とも伝えられています。
屋船神は、 古くは屋船久々能遅命・屋船豊宇気姫命とも称され、 豊受大神宮の家屋守護の神の神霊の名であり、また大殿祭祝詞には稲霊とあります。





式内社・清野井庭神社に比定される古社ですが、中世以後はやくに社地不明となり廃絶し、寛文3年の摂社再興のときに現在の場所、大間国生神社の東に再興されます。





清野井庭神社は社殿の裏手に公園があるためか、日中は子ども達の遊ぶ声が聞こえ、神社には明るい雰囲気があります。




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▼草奈伎神社▼ - 2011.10.06 Thu





草奈伎神社は、式内社・草名伎神社に比定されている古社であり、
外宮第一の摂社として尊崇されてきた神社です。
他の摂社と異なり、外宮摂社では唯一神職が参向して奉仕し祭祀を行います。





度会氏の祖・大若子命が垂仁天皇にこの剣を賜り勅命により、越国(福井・石川・富山・新潟)の阿彦という凶賊を平らげ、大幡主命の名を賜ったと伝わっています。
「草奈伎(くさなぎ)」の社号に関しては、倭姫命から日本武尊へ授けられる以前に神宮にあった草薙剣の御魂を祀るという説や、阿彦を討伐した大若子命の剣を草薙剣に例えたものという説などがあり定かではありません。





入り口には石積の蕃塀が築かれており古式の雰囲気を残しています。
ちなみに大若子命(大幡大神)は松阪市の櫛田神社にも祀られており、博多祇園山笠で有名な博多の櫛田神社はそこからの勧請社であります。




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▼大間国生神社▼ - 2011.10.04 Tue





草奈伎神社域内に鎮座され造宮使造替三社の一つであります。
地図では草奈伎神社と大間国生神社が別々に記載されていますが、入り口は一つです。





両祭神は伊勢の国造であった天日別命(あめのひわけのみこと)の子孫で、皇大神宮の鎮座に功績があり大間広と呼ばれるこの地域を開拓された神です。
御垣内の向かって右の社が大間社で大若子命を祀り、左は国生社で乙若子命が祀られております。





皇大神鎮座のとき、 大幡主命・物部八十友の諸人等を率いて荒御魂宮地の荒い草木根刈掃い、大石を取り平らげて大宮を定め奉ったといわれています。
また大若子命は11代垂仁天皇から御剣仗(草薙剣)を賜り、越国の凶賊・阿彦を討っています。
子孫はその職を世襲し天武天皇のとき改めて豊受大神宮祢宜に補せられ、 明治維新まで続きます。
代々外宮の神職として奉職した度会氏がそれです。




しかし廃絶した他の殆どの摂社が大宮司・大中臣精長の寛文3年の一連の再興事業によって復興したのに対して、当社はそれよりも早く正保2年に一禰宜・度会常晨により草奈伎神社とともに再興されました。

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