▼橋姫神社(宇治)▼ - 2012.11.16 Fri





JR奈良線の宇治駅を降り、お抹茶で有名な中村藤吉本店のある商店街を宇治橋方向へ、
大鳥居をくぐり「あがた道」をしばらく行くと左手にひっそりとした佇まいの橋姫神社があります。
当初は橋の管理を任されていた放生院常光寺(通称「橋寺」)の敷地内にあり、
橋の中ほどに張り出して造営された「三之間」に祀られていました。
明治までは宇治橋の架換えの度に社殿も新しく建て替えられていたそうです。
橋姫神社は三之間から宇治橋の西詰に移された後、明治3年の洪水による流出、
明治39に現在の場所に移されました。





孝徳天皇の時代646年(大化2年)に宇治橋が架けられた際、
上流にある櫻谷と呼ばれた地に祀られていた瀬織津比咩尊を、
橋の上に祀ったのが始まりとされています。
瀬織津比咩尊は人の罪や穢れを流し去る女神とされ、
橋姫神社は悪縁切りに御利益のある神社といわれています。
逆に恋人同士や婚礼の儀で神社の前を通ったり、
宇治橋を渡ったりするのは禁忌とされています。





源頼光の四天王の1人源綱が名刀「鬚切(ひげきり)」で鬼女となった橋姫の腕を斬り、
この後「髭切」は「鬼切」と呼ばれるようになり鬼と縁が深い名刀になったのは有名な話です。
また源氏物語宇治十帖の第一帖は「橋姫」と名付けられ、橋姫神社はその古跡となっています。
その源氏物語の中で詠われる有名な歌が、
「橋姫の心をくみて高瀬さす
棹のしづくに袖ぞぬれぬる」
という大君に贈った歌です。




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首塚へ至る道 - 2012.09.05 Wed


京都にある酒呑童子の首塚がある神社への道案内でございます(o´ω`o)
ちょっこし分り難いので写真でご説明をば♪
まず京都交通の亀岡市行きのバスに乗り「老ノ坂」で下車します。
京都駅の乗り場で説明するなら「C2」のルートバスで~
2系統の桂駅経由~亀岡駅・保津川下り乗船場行きで500円でっす☆
京都芸大の学生がよく乗るバスです(*´Д`)関係ないですが(笑


「老の坂」のバス停からトンネル方面に少し歩き、
国道9号線・老の坂トンネル入口手前の旧道へ入っていきますεε (っ*´▽`)っ
旧道への道は狭く看板も無いので見つけにくいです(x_x;)
あと意外と交通量が多いので歩道を歩く際はご注意を~
そしてしばらく歩くと……


はいっ廃墟群です(笑
えーいきなり挫けそうなんですが(( ;゚Д゚))進みます(笑
猿とか猪の住処になっていて
いきなり飛び出してくると怖いので
廃墟の反対側に寄って歩きました(ノ∀`)ドキドキ

廃墟を抜けると竹林になります。
竹林があるとなんとなく京都らしさ倍増です(笑

竹林を抜けるとすぐ丁字路になっています。
ここを左へ曲がりまっす♪
この日は分かれ道があるとは行くまで知らなかったので
感で左に行きました(ノ∀`*)結果的に正解でしたヨカッタヨカッタ(笑

少し歩くと
「京都自然200選(老ノ坂)」の道標と
愛宕山と書かれた灯篭があります。
そういえばこの旧山陰街道は休日になると
ハイキングで通る人が結構居るそうです♪


そしてさらに行くと集落っぽい開けた場所に出ます。
この道は古道というより農業道路っぽくなっていますが、
旧国境を示す国分石が今でもこのように残っています。
この地にはかつて老ノ坂集落がありましたが、
現在は廃村になったと記憶しています。

そして道なりに進んで行けば~
酒呑童子の首塚のある神社『首塚大明神』に到着ですヾ(@^▽^@)ノ
旧山城国と旧丹波国の境にある「老ノ坂」は、
かつては老ノ坂峠ノ里が形成され、
山陰道への入り口であったため丹波の特産品を扱う市が立ち賑わい、
宿場として栄えていたそうです。
室町時代には、天龍寺所管の関所が設けられ、
高地には老坂峠城も築城されていました。
いまは京都に人にもほとんど忘れ去られたこの地ですが、
古い歴史の遺跡などが多く点在する興味深い古道であります(o´ω`o)


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▼首塚大明神(京都)▼ - 2012.09.02 Sun









首塚大明神は京都市西京区大枝沓掛町の集落跡にあり、
国道9号線・老ノ坂トンネルの京都方面入口脇から、
旧山陰街道に入った老の坂山中の小高い丘の上に鎮座しております。
首塚大明神のは円墳の上に建てられているともいわれており、
周辺には大枝山古墳群(御陵大枝山)が発掘されています。





平安時代の頃、大江山にて酒呑童子とその一族を征伐し、
酒呑童子の首級を京の都へと持ち帰る源頼光と四天王らが、
この老ノ坂峠に差し掛かった際、急に酒呑童子の首が重くなり、
四天王の力自慢である坂田金時でも持ち上げられなくなります。
そこで源頼光一行は止むを得ずこの場所に首を埋めて首塚を作ったと伝えられています。





江戸時代には羅生門の鬼退治や坂田金時の金太郎伝説と共に、
文芸作品や錦絵の題材として広く知られるようになりました。
酒呑童子の本拠地である「大江山」には二説あり、
山城国と丹波国の境にある大枝山(現在の老ノ坂)、
もう一つは丹波と丹後の境にある大江山といわれています。





山城国と山陰地方を結ぶ境である大枝は古来より交通の要所であり、
『畿内堺十処疫神祭(または四角四境祭)』
という都に入る疫神を防ぐ祭りが行われた場所のひとつでした。
またここ老ノ坂は明智光秀が主君・織田信長を急襲する際に
天下取りを表明した場所でもありました。






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▼鬼神社▼ - 2012.08.17 Fri





板柳駅から西へ約5Kmの地点、
鬼沢という集落の中に鎮座しています。
参道入口の大鳥居などには東北で多く見られる、
俵型の注連縄があり興味深くあります。





社伝によると延暦年間に坂上田村麻呂が
岩木山山頂奥宮に鎮まる高照比賣命の霊験により
岩木山麓に当社を勧請し、その後、現在地に移転した。
というのが一応の公式な由来となっています。





実際この地域では2月の節分の際に、
鬼沢の住人は節分の日に豆をまかないそうです。
そして端午の節句にヨモギや菖蒲を屋根に乗せません、
ことを習慣にしている家庭が非常にこの地域には多いようです。
このことから少なくとも、この神社の氏子さん達は高照比賣命ではなく
神様として祀られる鬼に豊作を祈願していると考えられます。





『むかし、弥十郎という村人が、岩木山中の赤倉で鬼と親しくなり、よく相撲を取って遊んでいました。
ですが鬼は自分のことを『誰にも言わないように』と弥十郎と約束を交わします。
ある時、弥十郎は水田を拓きますが、すぐ水がかれてしまうので困っていました。
その話を聞いた鬼は赤倉沢上流のカレイ沢から堰きを作って水を引きます。
村人はこれを喜び、この堰を鬼神堰とかさかさ堰とよび、鬼に感謝した。
ところが、弥十郎の妻が約束を破り、鬼を一目見ようとしたために、
鬼は堰を作るときに使った鍬とミノ笠を置いて去り、2度と姿を見せなくなりました。
弥十郎が残された鍬とミノ笠を持ち帰り、神社を建立して「鬼神社」と名づけ、
村人も感謝を込め村の名前も「鬼沢」としました。』





拝殿には扁額が飾られています。
この扁額には『鬼神宮』と書かれていますが、
この鬼という字には上部の「ノ」がありません。
これは、ツノのない優しい鬼だと言うことを表しているそうです。





鬼の正体は坂上田村麻呂に追われ岩木山麓に隠れ住んだ津軽の豪族であるとか、
卓越した製鉄技術や潅漑技術を持っていることなどから、
大陸から漂着した渡来人ではないかという説もあるそうですが、
真実は遠い彼方です。
また噂では拝殿裏の本殿下には広い地下室があり、
そこには永遠に錆びない巨大な剣が保管されているともいわれています。






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