▼鹿島神宮・後編▼ - 2012.10.20 Sat






古来より禊の斎場として知られ、
神代の昔、武甕槌神が天曲弓で掘られたとも、
宮造りの折一夜にして湧出したとも云われています。
どんな旱魃の時も枯れた事がないといわれ、
不思議なことに大人が入っても子供が入っても、
水面が胸の高さを越えないそうです。





『松の箸』
鹿島山に生える松で作った箸はヤニが出ないといわれています。
『末無川』
鹿島神宮の東方にあり、水の流れが地中に入っていき、末がわからないという川です。
『海の音』
鹿島灘の波の音が上の方(北)に聞こえるときは晴れ、
下の方(南)に聞こえる時は雨といわれています。
『根上がり松』
鹿島山(鹿島神宮の森)に生える松は、
すべて切り株から芽が出ており、何度切っても枯れないそうです。
『鎌足藤』
かつて拝殿近くにあった藤原鎌足の手植えのものといわれている藤の花。
花の多少で豊作、凶作が占えたといわれています。





この日も舞台にて古武道演武会と、
射場にて小笠原道場の弓馬術礼法「百々手式」の奉納が盛大に行われていました。
弓道家達の「会」の姿が美事ですね。
室町時代より武家の礼は2部門に分けられ、
伊勢氏は内向き(殿中)の諸礼を仕い、小笠原家は外向き(屋外)の武礼を司っています。
ちなみに全日本弓道連盟が定める礼法は、小笠原流礼法を縦糸としています。





この楼門は寛永11(1634)年に徳川頼房が奉納し、
「鹿島神宮」の扁額は東郷平八郎の直筆によるものだそうです。
緑の中にある朱色の艶やかな楼門は、一際目に鮮やかです。





鹿島神宮では鹿が神の使いとされ、御手洗池近くに鹿苑があります。
鹿の神である天迦久神が天照大御神の命令を武甕槌神の所へ伝えにきたことに由来し、
春日大社の創建に際には白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れ、
1年かけて奈良まで行ったとされています。
長い歴史の間には何度か神鹿のやりとりがあり、
現在飼われている神鹿は奈良の神鹿の系統を受けています。
また御手洗池のそばには茶店があり、
焼き立てのお団子と、御手洗池の清水で沸かしたというお茶が楽しめます。
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▼鹿島神宮・前編▼ - 2012.10.19 Fri





茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座し、
全国に約600社ある鹿島神社の総本社であります。
また息栖神社・香取神宮と合わせて東国三社の一社にも数えられ、
伊勢神宮・香取神宮とともに、
明治維新前に「神宮」を名称に使用していた三社のうちの一社です。
漁業・港湾・船舶関係にも縁が深い鹿島神宮の正面にあるのはニの鳥居で、
一の鳥居はここより遠く離れた北浦湖畔の大船津に立っています。





武甕槌神は香取神宮の御祭神である経津主神とともに、
天孫降臨に先立って国土を平定したとされる武神です。
鹿島神宮と香取神宮は古代の朝廷が、
東国を治めるにあたり蝦夷に対する前線基地として重要視された場所にあります。





鹿島神宮・香取神宮はとも古来より軍神として祀られており、
現在でも武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が、
対になって掲げられている姿をよく見かけます。
ちなみに鹿島神宮近くには『塚原卜伝の墓』もあります。









社殿は、慶長10年(1605年)に徳川家康により関ヶ原の戦い戦勝時の御礼としての奉納され、
当初は本殿として使われていました。、
元和5年(1619年)の造替時より奥宮として使用されています。
また奥宮への奥参道は「奥馬場」とも呼ばれ、
毎年5月に流鏑馬神事が行われています。





『要石』は鹿島神宮の七不思議のひとつとされ、
地震を起こす大なまずの頭を押さえているといわれる霊石です。
この『要石』は香取神宮にもあり、鹿島側は上部中央部が凹形で香取側は凸形をしており、
俗説では鹿島神宮の要石と香取神宮の要石は下でつながっているとも言われ、
『水戸黄門仁徳録』によると水戸藩主・徳川光圀が、
7日7晩にわたり要石の周りを掘らせたが、根元には届かなかったと書かれています。
また万葉集には、このような鹿島神宮の要石の地震除けの歌が詠われています。
『揺ぐともよもや抜けじの要石、 鹿島の神のあらん限りは』




後編に続きます。
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