▼日吉大社-東本宮▼ - 2014.10.02 Thu






境内全体が国指定の史跡となっている日吉大社の中でも特に重要な、
西本宮、東本宮、宇佐宮、牛尾宮、白山宮、樹下宮、三宮宮の「山王七社」の一つであり、
その中でも西本宮と宇佐宮と共に「日吉三聖」と呼ぼれる重要な宮とされています。
東本宮参道の脇にある注連縄の張られた大きな岩は、
かつては何らかの祭祀が行われていた磐座と考えられ、
南から見ると猿が蹲った姿に見えるとのことから「猿の霊石」と呼ばれています。





この楼門は「三間一戸楼門」という形式で、
三間一戸とは柱間三つのうち中央が出入り口になっているものをいい、
楼門とは二階造の門で屋根が二階の部分だけしかなく、
一階に縁がある形式のものをいいます。
西本宮楼門とはやや違った比例で建てられており、
一階部分が高く作られているため、
全体的にすらっとした印象を受ける造りとなっています。









文献によりますと『古事記』の「神代の巻」に、
「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し…」
と記されていることから元々日枝の地主神として、
比叡山には東本宮の御祭神の大山咋神が祀られていたようです。









そして東本宮は、
その八王子山山頂にある大きな磐座を挟んだ牛尾神社と三宮神社のうち、
大山咋神の荒魂を祀る牛尾神社の里宮として、
崇神天皇7年(紀元前91年)に創祀されたものとも伝えられています。





安土桃山時代の元亀2年(1571年)に、
浅井長政と朝倉義景の連合軍に加担していた当時の延暦寺は、
僧が習学修練を怠り僧兵としての活動ばかりし堕落していたことも相まって、
織田信長は日吉大社のある比叡山へと攻め込み、
戦場となった日吉大社も全て灰塵に帰することになりました。
その後、織田信長亡き後、
天下を取った豊臣秀吉により社殿の再建がなされ、
現在の本殿となっています。
豊臣秀吉が日吉大社を再建した理由には、
幼名が「日吉丸」であったことや、
あだ名が日吉大社の神獣である「猿」と呼ばれていたことから、
日吉大社を特別と考え山王信仰が篤かった為とも言われています。


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