▼橿原神宮-若桜友苑・航空母艦 瑞鶴の碑▼ - 2014.12.28 Sun






この公園は戦没者の英霊を慰めるため整備された慰霊公苑で、
整備され綺麗な青々とした芝生の広場とと正面に見える畝傍山とで、
開放的で気持のよい静かな空間となっています。






公園正面の丘の奥、畝傍山の裾野にあるのは『絆の錨』です。
この錨はどの艦種の錨かは定かではありませんが、
平成八年頃に海上自衛隊から寄贈された錨で、
実際に旧帝国海軍ので使われていた錨だそうです。
錨の横には句が書かれておりそこには、
「錨に生きた若桜 残る桜も散る桜」
と書かれています。






この碑は昭和19年10月25日フィリピン沖海戦で米艦上機の猛攻を受けて撃沈されました、
帝国海軍の航空空母・瑞鶴の戦没者の英霊を祀るもので、
同艦生存者の「瑞鶴会」よりして昭和56年10月に建立されました。
航空母艦・瑞鶴は日米関係に暗雲がかかり始めた1941年9月に竣工し、
真珠湾攻撃、ソロモン海戦、マリアナ沖海戦などの激戦を戦い抜き、
レイテ沖海戦で囮部隊として困難な指名を果たした後、
奮戦の末、ルソン島エンガノ岬沖にて艦歴を深海に閉じました。
太平洋戦争開戦より最後まで航空機動部隊として戦った武勲艦、
それが航空母艦・瑞鶴なのだそうです。






この鎮魂之碑は瑞鶴とともに戦いゆかりの深い三隻の駆逐艦、
若月・初月・秋月と第六〇一航空隊の戦没者を祀る慰霊碑で、
後ろにあるのは実物よりは小さいですが航空母艦・瑞鶴にあった三角マストを模したものです。
また『航空母艦・瑞鶴之碑』の右手には、
平洋戦争の末期、 祖國存亡の危機に一身を投じて当たるべく、
学業半ばにして海軍飛行機搭乗員を志願しました、
第十三期海軍甲種飛行予科練習生の慰霊碑『殉國之碑』があります。

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▼橿原神宮-末社・長山稲荷社▼ - 2014.12.23 Tue






長山稲荷社は橿原神宮の南神門広場南方に広がる「深田池」の、
遊歩道に面した池畔にひっそりと鎮座しています。
平成二十二年の橿原神宮御鎮座百二十年の記念に際し、
社殿境内が新しく整えられ真新しい朱色の美しい社殿となっています。










この長山稲荷社は橿原神宮鎮座以前よりあった神社で、
古くから長山の地主神として祀られていました。
毎年三月の初午の日には「初午祭」が催され、
橿原神宮南神門前の広場では餅まきなどが行われるそうです。

橿原神宮の猫様第二弾です(笑
長山稲荷社横にある休憩所で、
厳かな雰囲気で眠っていところを撮らせていただきました(人*´∀`*)

かなりお歳の猫さんみたいで、
近づいてきたこちらをちらっと見た後またお昼寝開始、
きっとこの地に古くからいる地主猫様なのでありましょう(o´ω`o)(笑
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▼橿原神宮-イトクの森古墳(池田神社)▼ - 2014.12.19 Fri






橿原神宮の北参道から畝傍山へと向かう道の、
その途中にある『若桜友苑』の入口付近にこの神社はあり、
『イトクの森古墳』と呼ばれる古墳の上に鎮座しています。
この『イトクの森古墳』は小型の前方後円墳ですが、
前方部は既に無く後円部の上に神社の祠が立っています。



御祭神はいわゆる「欠史八代(けっしはちだい)」のうちの一人、
第4代天皇の懿徳天皇で、
イトクの森古墳の「イトク」とは懿徳天皇の「懿徳(いとく)」という名からきています。
かつて懿徳陵の場所が不明だったころは、
この名の通りここが懿徳陵とされることもありまたが、
現在は畝傍山の南麓に懿徳天皇陵が治定されています。
一節ではこの「イトクの森古墳」は懿徳天皇の皇后陵だともいわれています。

おまけのイトクの森古墳の番猫ギャラリーです(笑
ずっと石段のところで寝ていたので、
これはチャンスと、
そっと後ろから撫でようとして近づくと……

ばれてた(ノ∀`)ですよねー(笑
そんな怖い顔で睨まなくても(;´Д`)ヒエー

開き直って正面から近づいて正々堂々と撮影しました(`・ω・´)(笑
首輪に鈴もありますし近くのお家の猫なのかな?
凛々しく剽悍な感じの猫です♪
カッコイイ(人*´∀`*)肉食獣の顔やねー
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▼橿原神宮▼ - 2014.12.17 Wed






神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる畝傍山の東麓に、
記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、
1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建されました。









橿原宮の旧地創建された橿原神宮は約50万平方メートルもの広大な神域に、
本殿(旧内侍所)・神楽殿(旧神嘉殿)・文華殿(旧柳本藩の大書院・玄関を移築した織田屋形)
などの重要文化財に指定されている建築物や古墳など多くの文化財があります。










初代天皇とされる神武天皇は、天照大神の天孫・瓊瓊杵尊ににぎのみことより四代目に当たり、
正式には「神日本磐余彦火火出見天皇かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと」と申します。
その皇后である媛蹈韛五十鈴媛命は、三輪の大物主命と勢夜陀多良比売の娘であり、
天照大御神の子孫である神武天皇と素戔嗚尊の子孫である媛蹈鞴五十鈴媛命が結婚することで、
天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた1つに統合されることになりました。









王政復古の大号令に「諸事神武創業の始にもとづき」という文言があり、
明治維新以降、欧風化の波にのまれつつあるなか、
地元民間有志より神武天皇をまつる神社の創建の請願がおこりました。
明治天皇はこれに深く嘉賞せられ京都御所の賢所と神嘉殿と多額の御手元金をも下され、
明治二十三年四月二日、地元民挙げて奉迎するなか、御勅使参向になり、
御鎮座祭が執り行われ、官幣大社橿原神宮の創建が成りました。






毎年、例祭のある建国記念日の二月十一日には、
勅使御参向(ちょくしごさんこう)のもとに全国から数千人におよぶ参列者が参集し、
毎年盛大に執り行われています。
また神武天皇の崩御日にあたる四月三日には『神武天皇祭』があり、
宮中の皇霊殿と神武天皇陵に治定される畝傍山東北陵で儀式が行われ、
橿原神宮周辺においても「春の神武祭」が神武天皇祭の前後一週間にわたって開催され、
橿原神宮のライトアップやフリーマーケットなどが行われています。

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