▼美具久留御魂神社-美具久留御魂神社裏山古墳群第1号墳▼ - 2016.01.30 Sat

美具久留御魂神社の本殿背後の裏山は神奈備山とよばれる神体山で、
「美具久留御魂神社裏山古墳群」という古墳のあります。
古墳へは本殿横の参道より山へ登る道に続いています。






白雲宮の御祭神や由来について詳しいことはわかりませんが、
平安末期から神域に建立された11坊からなる神宮寺や宿坊、
そのうちの一つがあった場所の名残としてあるのかもしれません。
平安末頃から神宮寺が神域に建立され、一度は兵火に遭いながらも復輿し、
室町末には下之坊をはじめとして11坊を擁する神仏の霊地となっていましたが、
天正13(1585)年に、織田信長の根来寺攻めの兵火に焼かれ、
神宮寺は再び建つことはありませんでした。







こちらには多くの提灯が奉納されています。
沢山の提灯が祠の上に垂れさがる姿は圧巻です。










その古墳までの山道には所々に注連縄の張られた木があり、
そこには御神木に向かったその先の方角に鎮座する、
東海道十五カ国の一の宮の遥拝所が設けられた「一の宮参拝道」となっています。


この古墳は、美具久留御魂神社の裏山に位置する四基からある古墳群のひとつで、
前方部が南に面する全長約58メートルの前方後円墳です。
封土の一部は削平されていますが、後円部は二段築成であったと考えられています。

測量時には外護施設などは認められず内部構造も判明していませんが、
後円部丘斜面から円筒と朝顔型の埴輪片が採集され、
1930年頃には古墳付近から銅鏡が一面出土しています。
この美具久留御魂神社の付近一帯には、
北方に鍋塚古墳、南方に真名井古墳などの前期古墳が存在することから、
この美具久留御魂神社裏山古墳群第1号墳も同時期に築造されたものと思われます。

古墳から山道を下りてきますと本殿の裏側に出ます。



美具久留御魂神社の主な祭祀としましては、
10月の秋祭りに、大小あわせて12台前後の地車(だんじり)の宮入りが行われ、
多くの人で格別の賑わいをみせます。
また大阪、浪花漫才の起源とも言われる「俄」の伝承があり、
「にわかだんじり」があるのがめずらしいそうです。

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▼美具久留御魂神社▼ - 2016.01.27 Wed






羽曳野丘陵東斜面山麓旭岡に鎮座しますこの美具久留御魂神社は、
千早赤坂村の建水分神社を上水分神社というのに対しては下水分神社と称し、
また恩地神社を下水分神社と称する場合には中水分神社とも呼ばれています。






山の裾に下拝殿そこから中腹に階段が続き本殿の上拝殿があります。
また、下拝殿横や上拝殿脇から続いている参拝道は、
古墳のある山を周回する本殿を囲む形で設けられており、
榊の御神木に併せて方角の先々に鎮座する一の宮の遥拝所が設けられています。









左殿に天水分神(あめのみくまりのかみ)、弥都波迺売命(みずはのめのみこと)、
右殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)、須勢理比売命を配祀しています。
社伝によりますと崇神天皇10年(紀元前88年)に、
この地にしばしば大蛇が出没したので天皇自ら視察し、
「これは大国主命の荒御魂によるものである」として大国主命を祀らせたのが創始となっています。
その後、崇神天皇62年に丹波国氷上郡の氷香戸辺の小児が神懸かりし、
「玉萎鎮石。出雲人祭 真種之甘美鏡。
押羽振甘美御神 底宝御宝主。
山河之水泳御魂 静挂甘美御神。底宝御宝主也」と御託宣されます。
これは、
「玉のような水草の中に沈んでいる石。出雲の人の祈り祭る、真なる見事な鏡。
力強く活力を振るう立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。
山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。」
という意味で大国主命は出雲大神であり、大国主命は山河を泳ぎ渡ってきた和爾(わに)神(龍神)であり、
水泳御魂大神(みくくるみたまのおおかみ)であると御神体の名前が明らかとなったので、
天皇は直ちに皇太子の活目入彦命を当社に遣わして祀り、
「美具久留御魂(みくくるみたま)」の名を贈り、相殿に四神を配祀したといわれています。






この「生太刀と生弓矢」は『略記』によりますと出雲大社の御神宝で、
これを当社祭神の大国主神の御神体とすべく崇神天皇が出雲振根に使いを遣わし、
出雲振根の弟の飯入根が献上、出雲大社に代わって当社が祀るようになったと云います。
この神剣・生太刀を飯入根が献上し、
その事を後で知った振根が弟を殺した物語は、
『崇神紀』にて詳しく書かれています。





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