日本遺産の斎宮へ行ってきました~「いつきのみや歴史体験館」 - 2016.03.13 Sun

さて、いろいろ斎宮の史跡を巡りまして、
最後に最初の斎宮駅に戻って「いつきのみや歴史体験館」に入ってみました♪

時間的に閉館ギリギリの時間になっていました(ノ∀`)あー申し訳ない

「いつきのみや歴史体験館」は「史跡斎宮跡」の保存活用・整備の一環としまして、
文化庁の地方拠点史跡総合整備事業により建設され平成11年10月2日に開館しました。
外観は平安時代の貴族の邸宅の寝殿造と古代の役所の建物をモデルとして建てられており、
館内には斎宮が最も栄えた平安時代を中心に、
当時の歴史や文化を身近に体験・学習できる施設となっています。


葱華輦は斎王が京の都から斎宮までやってくるときに乗った輿(こし)を復元したもので、
天皇・皇后・斎王など特別な人しか乗ることが出来なかった輿です。
それがなんとこの体験館では乗って乗り心地を体験することができるのですっ!
でも、恥ずかしいので乗ってすぐ降ります(;´Д`)子供さん用かな(笑

他にも平安貴族の遊びである「 貝覆い(かいおおい)」「盤双六(ばんすごろく)」の道具があり、
係の方に申し出ますと古代の遊びの体験ができます。
特に盤双六は平安時代に流行りすぎて禁止令も出るほどでしたので、
オススメです(-_☆)v




これは常設の体験企画の「袿(うちき)をはおってみよう」のコーナーです。
袿(うちき)は貴族の女性が着ていた「十二単」の一部分を復元したもので、
単を着て、それから袿に袖を通して簡単に平安衣装を体験することができます。
着た後はこの畳の上に立って記念撮影することもできます(人*´∀`*)
また完全予約制で有料ですが本格的な「十二単」を試着体験をすることができ、
記念撮影もしていただけます。
男性用の直衣もあるそうです☆

常設と季節毎の展示の他にも、
古代の年中行事にちなみました「茱萸嚢(しゅゆのう)」「卯槌(うづち)」などの小物作り、
お香を使った古代の香り作りや土器づくりなど様々な体験講座が季節ごとに催されています。
大きなイベントしましては、
6月の「斎王群行」、9月の「いつきのみや観月会」、12月の「追難のまつり」があり、
なかでも6月のハナショウブの咲く頃に行われる「斎王群行」は大きなイベントで、
斎王をはじめ、女別当・内侍・近衛使など総勢約120人の人々が平安衣装を身にまとい、
街中を群行する姿は圧巻なのだそうですよ(o´ω`o)一回拝見してみたいものです♪
くわしいスケジュールや内容などにつきましては、
こちらの「いつきのみや歴史体験館」公式HPへどうぞ↓
http://www.itukinomiya.jp/




こちらは「いつきのみや歴史体験館」の目の前にある「いつき茶屋」です。
ここでは地元の特産物やオリジナル商品のお土産の販売、
ちょっとした軽食をいただくことができます。
今回は食事をここではいただかなかったのですが
特産物のひじきを使った「ひじきうどん」や古代米のメニューがあり、
美味しそうでした(゚▽゚*)♪
あと予約制ですが「斎王の宝箱」という斎王の食事を再現したお弁当が、
こちらの茶屋でいただくこともできるそうです。
お土産はもちろん古代米を使った「斎王せんべい」がオススメですよ(o´ω`o)ノ

というわけで何回かにわけて続きました「日本遺産の斎宮へ行ってきました~」のシリーズ、
これにておしまいですヾ(@^▽^@)ノ
今回は斎宮駅の近くの遺跡などを主に回りましたが、
周囲にはまだまだ史跡や発掘調査中の場所などもあり、
見所沢山なかんじです(´ー`)機会があれば今度はもうちょっと遠くの史跡も見て見たいと思いました☆
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日本遺産の斎宮へ行ってきました~「八脚門跡と惇子内親王の墓」 - 2016.02.28 Sun

今回は斎宮の史跡や歴史体験館などがある斎宮駅裏から、
斎宮駅の前側の史跡をちょっと巡ります(´ε` )♪
電車で伊勢に行く時はいつも窓から史跡側を見ていましたので、
こちら側に来たのは初めてです(ノ∀`*)
ちなみに江戸時代の旧伊勢街道はこちら側を通っています。

まずは駅近くにある史跡「八脚門跡」へεε (っ*´▽`)っ
八脚門跡へは斎宮駅前から伊勢街道の県道428号線に出て左に曲がり、
100メートルほど歩いたところに細い路地に入る曲がり角に看板が出ています。
写真では大きく見えますが結構小さな看板で車ですと見落としやすいかんじです(;´Д`)


…とまぁ勢いを付けて行ってみましたが、
門跡を発掘調査した目印的なものがあるだけで地味です(笑
地味ですが、この八脚門跡の発見は斎宮跡の発掘史上画期的な発見でした。

平成5年に方格地割の南西の区画の南面で、
この掘りに取りつく形の平安時代初期の八脚門が見つかりました。
八脚門は都の役所や宮殿でも重要な施設にのみに使われる、
前後に4本ずつ、計八脚の柱が屋根を支える形の門で、
この発見により方格地割が最大で東西7列あると特定されました。
この八脚門を斎宮の南門として両側からは板掘が東西に延び、
平安時代には史跡の東限から史跡中央部まで展開していたことがわかります。

さて、次はこの八脚門跡から見える山の方、
手前の丘陵っぽいところに向かいます(o´ω`o)ノちょっと遠いです。



県道37号線の「有爾」という交差点を玉城方面への道に入り、
すぐ右手にある町立・暁幼稚園(現在は廃園)が見えますのでそこを右折し、
その幼稚園の門前を道なりに進んで共同墓地の前を過ぎますと、
惇子内親王墓伝承地の標識が見えてきます。
ここが「惇子内親王の墓」と伝えられている場所です。
惇子内親王(あつこ/じゅんしないしんのう)は、
初代斎宮の大来皇女から数えまして第56代目の斎宮にあたる方で、
後白河天皇の第5皇女で、母は坊門局、堀河斎宮とも呼ばれていました。
仁安元年(1168)に、異母弟の高倉天皇の即位にともない12歳で斎王に選ばれ、
嘉応元年(1170)に伊勢へと群行されますが間もなくお身体を崩され、
母である坊門殿が伊勢へ下向しますが回復はせず15歳で薨去し、
在任中に伊勢で薨じた2人目の斎宮となられました。
その後、惇子内親王が葬られた場所の伝承は早くに消失し、
長くその場所は定かではありませんでしたが、
明治の皇族墳墓の調査が全国で行われた際に、
ここが陵墓と比定されました。
その根拠には惇子内親王が「堀河斎宮」とも称され、
この地に「掘川溝」という溝があり数基の塚があったことからとされています。
しかしながら現在ではこの塚から陶器・鉄器・銀環などが出土したことから、
古墳時代後期の群集墳と考えられるようになり、
以前の比定は根拠のあるものとはいえなくなりました。
ですが、近代斎宮跡の顕彰史の一頁を飾るという意味で重要な史跡であることから、
昭和58年に町史跡指定がなされています。

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日本遺産の斎宮へ行ってきました~「隆子女王の墓と栗須美神社跡」 - 2016.02.25 Thu

斎宮の史跡から少し離れた場所にある「隆子女王の墓」です。
斎宮史跡からは約3キロほど大淀海岸へ向かう道の途中にあり、
周囲が住宅街や田園となっている為すこし判り難い場所になっています。
斎宮歴史博物館からは県道707号線を神麻続機殿神社方面へ向かい、
栗須美神社跡のある十字路を右手に曲がりますとここに着きます。
国道23号線からは明和町行部2の信号機を伊勢に向かって右折し、
車で3分程走りますと隆子女王の墓の標識がありますので、そこを右に入ります。





隆子女王の墓は地元の方の古い墓地区画の隣にあり、
長い間「姫塚」と呼ばれていた古墳群の中の一つを、
明治16年の調査によって隆子女王の陵墓と認定し、
現在は宮内庁によって管理されている陵墓です。


第60代天皇・醍醐天皇の孫女にあたります。
円融天皇の代の斎宮として安和2年(969)に卜定(ぼくじょう)され、
翌年971年に伊勢へ赴き斎宮の任に就いましたが974年に病に罹り、
わずか3年の在位で病死し、この地に葬られました。
この時の流行の病とは「疱瘡」のことで、その猛威は89日間におよび、
多くの死者が出たことが歴史書にも記されています。
そして斎王が斎宮で亡くなるのは、この時が初めてのことでした。
現在の隆子女王の墓は静かな場所にあって管理の行き届いた綺麗な陵墓で、
斎王の面影を偲ばせるような清楚な雰囲気があります。

隆子女王の墓へ向かう途中にある「栗須美神社跡」です。
9世紀中期の弘仁年間(820)頃に、
嵯峨天皇が大己貴命を祀り鎮守の神社とするようにと斎王に命じ、
鎮守の神社として祀られるようになったという伝説が創始にあり、
鎮守台とも呼ばれていました。
現在は石碑と小さな社があるのみとなっています。
ちなみにこの写真ですと左へ行くと斎宮歴史博物館で右に行きますと神麻続機殿神社、
手前が隆子女王の墓への道となっています。
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日本遺産の斎宮へ行ってきました~「塚山古墳群」 - 2016.02.21 Sun

斎宮周辺にはいくつもの古墳や墳墓がありますが、
塚山古墳群はその中でも代表的なもので、
多くの古墳がまとまった古墳群です。

古墳群の位置は明和町の斎宮歴史博物館敷地内、
および周辺に分布広く分布しています。

斎王の森と塚山古墳群を結ぶ道は、
「和歌とともにあるく歴史の道」という道になっていまして、
斎王の森と塚山古墳群の間には24首もの歌碑が並ぶ道になっています(o´ω`o)
その斎王の森から歌碑の道歩き、
県道707号との交差点に塚山古墳群の3号墳があります。


塚山古墳群は斎宮成立以前からあり、
斎宮寮のあった時代には神域の神聖な森として、
その後の斎宮が無くなった時代にも地元の稲荷信仰などにより守られ、
今の時代まで現存出来たと考えられます。

また近年の発掘調査では史跡の北側を大きく迂回するように掘られた「大溝」が発見され、
その長さは約2キロ、最も広い所で幅3.4メートル、深さは3メートル以上もあるそうです。
調査によりますと平安時代末期から鎌倉時代の中期頃まで使われていたようで、
この大溝は斎宮の北側を区画するためのものと考えられています。




塚山古墳群は主に5世紀末~6世紀前半に築造された円墳と方墳からなり、
調査では42基が確認され、現在は13基現存しています。
円墳は径15m前後、方墳は1辺10m前後のものが多く周溝をもち、
出土遺物には埴輪や土師器、須恵器などがあります。
看板の黒い印は現存する古墳で、
水色は調査で確認された古墳の場所です。


現存する古墳の中では高さ・幅ともに最も大きなもののようで、
周濠が巡る方墳となっています。

いいかんじの古墳っぽい写真を撮ってみました(*´Д`)(笑


高さ約2メートル、径が22メートル程の円墳で、
墳丘の周囲には周濠があります。
看板の「塚山古墳群1号墳」の文字が消えていましたので、
近くを通りながらも気が付かず、すごく探しました(;´Д`)(笑

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日本遺産の斎宮へ行ってきました~「斎王の森」 - 2016.02.11 Thu

次は「斎王の森」へと向かいます(o´ω`o)ノ
斎王の森は鎌倉時代から南北朝時代と続く兵乱で斎王制度が無くなった後、
長らく「幻の宮」と呼ばれ伝承にのみ斎宮の面影と存在を示唆されていましたが、
その斎王の御殿のあった場所として地元で伝承されてきた場所です。
古代から中世にかけて設置された斎宮のその規模は、
伝承や発掘調査から推測されるところでは、
東西約2キロメートル、南北約700メートルの約137ヘクタールもの広大な面積を有し、
奈良時代には斎宮を中心として広大な都市型の地割「方格地割(ほうかくちわり)」がされ、
およそ12メートルから15メートルほどの直線道路と一辺120メートル四方の区画がいくつも作られ、
その中に宮殿や役所が建てられた様子はまるで都のような景観であったと言われています。
発掘調査は昭和45年の範囲確認調査を斎宮の第1次調査とし、
今年は第186次発掘調査が行われるそうです。
ちなみにその発掘調査は参加費無料で午前:9時から12時まで 午後:13時から16時まで、
雨天時・土曜日・日曜日・祝日などの現場休工日以外の日に見学することができます。

近鉄斎宮駅から「いつきのみや歴史体験館」の横の道を、
1/10史跡全体模型を左手に眺めながら進みますと右手に小さな森が見えてきます。
そこが目的地の「史跡公園・斎王の森」です。
最初に行った「さいくう平安の杜」区画からすごく近かったです(*´Д`)(笑





ここは、かつて斎王の御殿があったと語り継がれていた場所で、
幻の宮となっていた時代にも地元の方々に斎宮の森として守られてきた場所です。
現在は神宮司庁の管轄地になり今では斎宮跡全体のシンボル的な場所になっています。
最近の発掘調査の結果からはここに御殿そのものがあった可能性は低く、
実際にはこの森の南方400メートルの地点にあったようです。


森の中には明治維新100年を機として北白川房子神宮祭主の御染筆を碑文にし、
、「御館(みたち)」という斎王の御殿のあった場所を永く後世に伝えるため、
「斎王宮址」と刻まれた石碑があります。
また斎王の森の右手には史跡公園として掘建柱建物跡や井戸跡が復元され、
大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌碑などがあります。
その歌碑には第10代の斎王・大伯皇女(おおくのひめみこ)の万葉集の歌、
「我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて 暁露に我が立ち濡れし」
という大和へと帰す弟・大津皇子の身の上を気遣って詠んだ歌が刻まれています。

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