▼高座結御子神社-太閤出世稲荷▼ - 2017.07.20 Thu
▼高座結御子神社-高蔵貝塚・大楠▼ - 2017.07.16 Sun





明治時代、この地から東の大津通までの改修工事の際に、
弥生中期の有彩立壷や彩文土器、彫刻のある馬骨、歯などが発掘された、
尾張地方を代表する有名な貝塚、古墳群の一つです。
この貝塚は埋葬物などから弥生時代から鎌倉時代の生活状況を立証するもので、
発見された「彫刻が施された馬の骨」により弥生時代の日本に馬が居たのかについて議論を呼びましたが、
現在ではこの馬の骨は奈良時代頃のものではないかと考えられています。
明治41年の記録では神社を取り囲むように7基の円墳があり、
周辺も含めれば15〜20基程度の古墳がありましたが、
神社を取り囲むようにあった円墳6基以外は調査すら行われないままに土地開発で失われ、
原型を留めて現存するのは1基のみとなっています。


浜主は熱田神宮の社家で承和12年(845)正月に仁明天皇の御前にて、
113歳の高齢をもって自作の「和風長寿楽」を見事に舞い、
大極殿に居並ぶ人々を感嘆させ御嘉賞を賜った舞楽の大家です。
その時に歌碑にある、
「翁とて侘やは居らむ草も木も栄ゆる時に出でて舞ひてむ」と詠じました。






拝殿右手から森へ入ってすぐの所にある楠の木で、
境内に七つある市指定保存樹のうちもっとも大きな木であり、
当社の御祭神とは別の民間信仰である霧両大龍神のご神木となっています。
正面の幹の所にハート型に見える様な模様があり、
ご神木に触れお参りしますと良縁・縁結び・夫婦円満などに御利益があるとされています。

ご神木の前に小さな手水鉢のようなものがありますが、
これははご神木に宿る龍神様の水が保存されており触れることは固く禁じられています。


森の中を歩いて拝殿の真裏まで廻って来ますと、
このような木に掛けたられた木槌がいくつかあり、
拝殿裏の塀にはここからのお参りの方法が説明されています。
お参りの方法は、
①お賽銭を塀の屋根越しに投げ入れる。
②木槌で板をコンコンと二回叩く。
③「高座さん起きてちょ。頼み聞いてちょ。」と言う。
④もう一度木槌で板をコンコンと二回叩き
「頼み聞いてちょ。」と言って、次の方に席を譲る。
言葉を声に出す、出さないは、どちらも可。とのことです。


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▼高座結御子神社-本殿・御井社の井戸▼ - 2017.07.11 Tue






熱田神宮の北へ約1Kmほどの高蔵町に鎮座し、
地元では「たかくらさん」や「高座さま」と呼ばれている、
熱田七社の一つである熱田神宮の境外摂社です。
創建は不詳ですが伝承によりますと天武天皇(673年-686年)の頃または、
熱田神宮の創建とと同時期と伝えられています。






現在の御祭神は尾張の祖神である高倉下命となっていますが、
文献によりますと日本武尊の御子・仲哀天皇とする説や、
日本武尊の異母弟・成務天皇とする説、成務天皇・仲哀天皇両神説などがあります。
昭和20年(1945年)の戦災で焼失する以前の本殿は、
元亀2年(1571年)に織田信長からの寄進により造営されたもので、
社殿は尾張造の丹塗りであったそうです。
現在では尾張造(おわりづくり)の建築様式の社殿は、
ここ高座結御子神社や氷上姉子神社など数社のみですが、
熱田神宮もかつては同じ建築様式の本殿でした。









高座結御子神社は「子育ての神様」として有名で、
ここにある御神井という井戸を子供に覗かせると、
疳(かん)の虫封じになるという信仰があり、
「高座の井戸のぞき」という神事が毎年6月1日に行われます。




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▼七里の渡し・熱田▼ - 2016.11.28 Mon


『七里の渡し渡船場跡・宮の渡し公園』です。
この公園は堀川と新堀川の合流点にあり、
東海道・宮の宿から桑名へ渡る「七里の渡し」の渡船場跡を整備し作られました。
ここにはかつて江戸時代に東海道41番目の宿「宮(熱田)」があり、
約 7里(約27.5Km)先の桑名へと渡るための宮側の渡し場あった場所で、
「七里の渡し」と称された東海道で唯一の海上路がありました。
渡海者が多い時には桑名や佐屋、そのほか近隣の村などからも船を借りたそうです。






寛永二年、熱田須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立し、
後に風害で破損したため承応三年に現在の位置に移されたものが、
寛政三年に付近の民家の出火で消失し、同年、成瀬正典によって再建されます、
そして長い年月により荒廃していたものを昭和三十年に復元したものです。
また「七里の渡し」からの船の移動ではしばしば海難事故にあう事もあったようで、
この海路を避ける行程として佐屋街道の宮宿から万場宿、佐屋を通り、
佐屋から桑名へ船で渡るという迂回路もありました。
現在、ここから見える海側の景色はビルや住宅街などとなっていますが、
かつてはこの「七里の渡し」の目の前すべて、堀川のむこう側は伊勢湾を望む海でした。



公園内で一際大きいこの建造物は「時の鐘」というもので、
延宝四年に尾張藩主、徳川光友の命によって、宮の渡しから北に約500m離れた蔵福寺に建立し、
長い間、熱田の住民や東海道の旅人に時刻を知らせる役目を務めました。
江戸時代のものは戦災により焼失してしまいますが、
当時も使用されていた鐘だけは今も蔵福寺に保管されています。
昭和五十八年に、宮の渡し公園内に復元がされた現在も鐘は付けられ、
住民の方々に時刻を知らせる役目を務めているそうです。


江戸時代の「七里の渡し」の様子が描かれ、
桑名から来る船の様子や熱田鳥居と書かれた赤い鳥居、
手前の孤島のような所には「寝覚の里」と名所が紹介されています
この宮宿には船番所も設けられ行き交う船の管理をしていたようで、
天保年間に利用された渡し船は75艘、小渡し船42艘で、
40~50人乗りの乗合船から3~5人乗りの小船まであったそうです。
現在は戦災や伊勢湾台風などで宿は廃れ、
その面影を残すのは脇本陣格の旅籠だったといわれる丹羽家住宅など、
二軒ほどの建物にその面影を残すだけとなっています。

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東海地方最大の前方後円墳 『断夫山古墳』 - 2016.11.20 Sun


熱田神宮から北西へ約500m行った所にある熱田神宮公園、
そこに野球場などと一緒に公園内にある古墳で、
東海地方では最大の前方後円墳で国の史跡にも指定されています。

古くから熱田大宮司家が宮簀媛命墓として奉仕してきた古墳で、
明治9年(1876)に熱田神宮所属地化し昭和62年(1987)に国の史跡に指定されています。
この古墳は熱田台地南西縁の標高約10メートルの地に位置する大型前方後円墳で、
かつて、海岸線が熱田台地西側近くまで伸びていた頃には伊勢湾を広く望んだ立地でした。
江戸末期から明治初期に刊行された『尾張名所図会』には「鷲峯山」として紹介され、
かつて断夫山は常日頃の立ち入りは禁止されていましたが、
3月3日のみ立ち入りが許され墳頂から熱田の浜を見渡せた様子が描かれています。






3段築成の墳丘をもち古墳南東隅がやや削られていますが、
全長約150m・高さは一番高い所で約16mもある大きな前方後円墳となっており、
尾張地方で最大規模の古墳であることから、
古代豪族の尾張氏の首長墓になると考えられています。
しかし被葬者は明らかでなく熱田神宮では古くから「陀武夫御墓」と称し、
日本武尊妃の宮簀媛命(みやずひめのみこと)の墓とし熱田神宮神域として保護され、
現在も毎年5月8日に白鳥古墳と断夫山古墳において御陵墓祭を行なっています。
ただし、史書上での日本武尊伝説の想定年代は4世紀頃となり、
断夫山古墳の築造時期とは大きく隔たりがあります。

古墳の周濠から前方後円墳の形がよく判ります。
前方後円墳なので手前の円形部分が後ろで、
奥の方墳部分が前方になります。
古墳の規模は、築造当時6世紀前半の大阪府高槻市の大王墓の今城塚古墳(190m)には及ばないものの、
福岡県の八女市岩戸山古墳(135m)を上回り、全国で屈指の規模となっています。
また、この円墳と方墳の繋がるくびれの部分からは多量の須恵器が出土しましたが、
その多くが行方不明となっており現在確認できるものの大半は全形の不明な小片で、
行方不明となった須恵器のうちには貴重な子持高坏(こもちたかつき)もあったといわれています。

おまけの古墳の猫ちゃんです(*゚∀゚)=3すごく警戒されてます(笑
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