▼七里の渡し・熱田▼ - 2016.11.28 Mon


『七里の渡し渡船場跡・宮の渡し公園』です。
この公園は堀川と新堀川の合流点にあり、
東海道・宮の宿から桑名へ渡る「七里の渡し」の渡船場跡を整備し作られました。
ここにはかつて江戸時代に東海道41番目の宿「宮(熱田)」があり、
約 7里(約27.5Km)先の桑名へと渡るための宮側の渡し場あった場所で、
「七里の渡し」と称された東海道で唯一の海上路がありました。
渡海者が多い時には桑名や佐屋、そのほか近隣の村などからも船を借りたそうです。






寛永二年、熱田須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立し、
後に風害で破損したため承応三年に現在の位置に移されたものが、
寛政三年に付近の民家の出火で消失し、同年、成瀬正典によって再建されます、
そして長い年月により荒廃していたものを昭和三十年に復元したものです。
また「七里の渡し」からの船の移動ではしばしば海難事故にあう事もあったようで、
この海路を避ける行程として佐屋街道の宮宿から万場宿、佐屋を通り、
佐屋から桑名へ船で渡るという迂回路もありました。
現在、ここから見える海側の景色はビルや住宅街などとなっていますが、
かつてはこの「七里の渡し」の目の前すべて、堀川のむこう側は伊勢湾を望む海でした。



公園内で一際大きいこの建造物は「時の鐘」というもので、
延宝四年に尾張藩主、徳川光友の命によって、宮の渡しから北に約500m離れた蔵福寺に建立し、
長い間、熱田の住民や東海道の旅人に時刻を知らせる役目を務めました。
江戸時代のものは戦災により焼失してしまいますが、
当時も使用されていた鐘だけは今も蔵福寺に保管されています。
昭和五十八年に、宮の渡し公園内に復元がされた現在も鐘は付けられ、
住民の方々に時刻を知らせる役目を務めているそうです。


江戸時代の「七里の渡し」の様子が描かれ、
桑名から来る船の様子や熱田鳥居と書かれた赤い鳥居、
手前の孤島のような所には「寝覚の里」と名所が紹介されています
この宮宿には船番所も設けられ行き交う船の管理をしていたようで、
天保年間に利用された渡し船は75艘、小渡し船42艘で、
40~50人乗りの乗合船から3~5人乗りの小船まであったそうです。
現在は戦災や伊勢湾台風などで宿は廃れ、
その面影を残すのは脇本陣格の旅籠だったといわれる丹羽家住宅など、
二軒ほどの建物にその面影を残すだけとなっています。

○いつもポチッと投票ありがとうございます(o´ω`o)励みになります♪○



スポンサーサイト