▼水無神社-御神木▼ - 2018.12.21 Fri


樹高45m、枝張り幅20m、目通り6.45mもある大杉で、
その樹齢およそ800年と推定されるこの老杉は、
ずっとこの場所で神樹としてこの地の歴史と人を見守り続けています。



元は絵馬殿の傍らにあったもので、
自然の作用により捻じ曲がった珍しいヒノキです。
ちなみに飛騨伝統の駄菓子「こくせん」はこのネジの木に似せて作ったもので、
お正月の参拝者のお土産になっています。
この木には2つ伝説があり第一には、
その昔、この大樹が社家や民家が日陰になるので、
伐って普請に使おうと相談しあったところ、
一夜の内に幹はもとより、梢まで捻じ曲がってしまい、
里人は神の祟りと恐れ謝ったという伝説が伝えられています。

第二の伝説では、
江戸時代中頃に、この地域で宮川が氾濫し高山の中橋が流され、
家屋や土蔵が多く流されるという甚大な被害が発生したため、
当時の代官・大原彦四郎は神社の大ヒノキを橋材として差し出すように命じました。
そこで困った神社側は一計を案じてこのネジの木を指し示し、
神意で一夜の内にねじれてしまったと説明したところ、
ほかの境内の木も切ることが取りやめになったと伝えられています。


この銀杏は樹齢およそ800年と推定され、
落雷で折損した上部にイチイ・ナラ・ケヤキ・クルミなど、
やどり木が繁茂し見事な枝振りを見せ枝下から乳房状の下垂根が垂れている為、
古くより子の無い者は子が授かり、乳の出ない母は乳が授かるといわれています。


島崎正樹は明治の文豪藤村の父であり、
水無神社宮司として赴任し、
在任中には高山中教院の教導職教導職として多くの若者を指導したそうです。
島崎藤村の著書「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデルとなった人で、
宮村の晩秋を詠める短歌「きのうけふ しぐれの雨と もみぢ葉と あらそひふれる 山もとの里」一首を碑としています。

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▼水無神社-摂末社▼ - 2018.12.16 Sun


棟札には慶長12年(1607年)に高山城主・金森長近により造営されたとあり、
飛騨の百姓一揆「大原騒動」と因縁のある絵馬殿です。
安永7年(1778年)の百姓一揆「大原騒動」の際に、
水無神社神主の山下和泉、森伊勢の両名が農民に加担したとして処刑され、
神主が不在となったため信州より神主の梶原伊豆守家熊が招かれました。
梶原伊豆守家熊は従来の両部神道を改め唯一神道とし、
拝殿以外の仏像・仏具と社殿を破却、移転、改築を進めます。
やがて明治時代となり高山県知事の宮原積は社殿の造営をおこないましたが、
従来の入母屋造りに代え神明造りに統一した際に不釣合いとなったので拝殿は取り壊されました。
しかし、氏子達はこれを惜しみ建材を保管して、明治12年(1878年)に拝殿再興を願い出て浄財を募り、
元の位置に絵馬殿として復元され、その後、昭和29年にかつての社家跡に移築され現在に至っています。

絵馬殿には稲喰神馬の黒駒・白駒が画かれた絵馬が飾られています。


稲喰(いなはみ)の馬という木造の神馬2頭が神馬舎に安置され、
作者は不詳となっていますが、
古来より名匠「左甚五郎」の作と言い伝えられています。
水無神社には古くから「稲喰神馬(いなはみしんめ)」という神馬の伝説が語り継がれ、
黒駒という神馬像は江戸時代の初期の頃、
毎夜、番場の神田を食い荒らした馬を追っていくと納屋の中に消えた為、
これは黒駒の仕業と考え両目を抜き取ったところ、
以来耕作地を荒らすことが止んだと伝えられています。
もう一方の白駒という神馬像は「祈晴の神馬」と呼ばれ、
元は黒駒でしたが明治15年に大池宮司が体は白く尾と髪が黒い川原毛と呼ぶ彩色に塗り換え、
明治36年に行われた大祭では飛騨一円の博労衆が醵金して再び黒馬に塗りかえ、
その後に大正天皇の御大典の記念として現在の白月毛に化粧され、
台輪も金具付きの立派なものになったといわれます。
毎年例祭前の祈晴祭には神前に黒駒と共に引き揃えて祈晴祭を執行するという古例があるそうです。





御祭神は菊理姫命
合掌造りの里として知られる白川村の長瀬と福島、
それぞれの集落にあった氏神白山神社を遷座し、
合祀して白川神社として水無神社境内に創建されました。
世界遺産として有名な白川郷(荻町)は現在も合掌造りの里としてありますが、
同村の長瀬と福島は昭和32年の御母衣電源開発でダム湖底に沈むことになり、
それぞれの集落にあった氏子も解散されましたが、
氏神白山神社を飛騨国一宮の地に御遷座、両神社を合祀し白川神社として創建されました。






享保年間に徳川吉宗の命令で高山の代官だった長谷川忠崇が著した、
飛州志の飛州軍覧記・飛州千光寺記・飛州三沢記の内、
飛州三沢記に「一宮水明神往古より七宮なり」とあり、
稲荷社はその一宮に数えられています。
一時期本社に合祀となり社は無い状態になっていましたが、
昭和24年4月2日境内稲荷坂に新たに社殿を造営して遷宮され、
更に平成6年11月5日に新社殿が改築造営されました。




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▼飛騨一宮 水無神社-本殿▼ - 2018.12.10 Mon






岐阜県高山市の市街地南方に鎮座する神社し、
延喜式では小社に列格しする飛騨国一宮で、
西南方ある位山(くらいやま、標高1,529m)を神体山とし、
飛騨国の鎮守として朝廷からも崇敬された神社です。






また水無大神(みなしのおおかみ)として主神と、
大己貴命、三穗津姫命、応神天皇、高降姫命、神武天皇、須沼比命、
天火明命、少彦名命、高照光姫命、天熊人命、天照皇大神、豊受姫大神、大歳神、大八椅命
を総称しまして水無大神(みなしのおおかみ)と呼ばれています。
創建の年代は不詳ですが歴史上にあらわれるのは清和天皇の時代、
貞観9年(867年)に従五位上の神位を授けられた記事に始まり、
延喜式では小社に列格し飛騨国の一宮とされ、
神仏習合の鎌倉時代には「水無大菩薩」と称し、
両部神道として社僧を置き本地堂一宇を建てて釈迦像を安置し社僧が奉仕していました。





社内にある仏像や仏教関係の古文書等多くが撤去され国幣小社に列格し、
昭和12年には神衹院の国営工事として前社殿の大造営がはじまり、
戦中、戦後の克服し昭和24年にほぼ現在の形に完成されました。
また第二次世界大戦末期の1945年7月31日に昭和天皇は内大臣木戸幸一を呼び、
草薙剣を疎開させる意向を伝え疎開先や時期を政府内で協議するように指示し、
8月5,6日に陸軍や宮内省関係者が水無神社周辺の山林を視察したといいます。
実際、疎開が行われたのは終戦後の8月22日、
宮内省の勅使が熱田神宮本殿で新調した木箱に剣を収め、
陸軍の協力で運び出し、9月19日まで水無神社に安置されました。
約一ヶ月ほどこの神社に安置された後、
草薙剣は熱田神宮の神職が抱えて高山本線の電車で運ばれ帰ったそうです。






水無神社のお祭りの中では「生きびな祭」というのが有名で、
蚕糸業が盛んだったこの地方の春の養蚕業祭に、
寒冷地のためにひと月遅れて行われるひな祭りをとり入れ、
絹に象徴される女性の気品と幸福を祈念するために始まった祭りです。
「生きびな」に選ばれるのはすべて女性で、
選ばれた女性は左大臣、右大臣、内裏、后、五人官女の平安衣装を纏い、
総勢100名余りの平安の昔を偲ばせる煌びやかな祭行列は、
雅楽が奏でられる中、表参道から境内までを練り歩き、
特設舞台にて生きびな様の紹介や1年の豊作を祈願して生きびな様による餅投げが行われます。
このお祭りは『氷菓』というタイトルのアニメでモチーフとして登場し、
最終回のエピソード「遠まわりする雛」では水梨(みずなし)神社のお祭りとして、
この「生きびな祭」の様子が画かれています。

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