▼猿田彦神社(伊勢)-佐瑠女神社・御神田▼ - 2015.01.13 Tue






猿田彦神社の本殿に向かい合うように建っており、
佐瑠女神社の御本殿は朱色の漆に塗りあげられた、
色鮮やかな八角形をした芸能の神様らしい御本殿となっています。





天照大御神が天岩窟に籠られたときに八百万の神様の前で神楽をされた逸話から、
俳優(わざおぎ)、神楽、技芸、鎮魂の祖神と仰がれています。
また天孫降臨の際に天津神と国津神との間を取り持った神様であることから、
良縁・縁結びの神様としても有名です。
天宇受売命は天孫降臨の御一行を迎えられた猿田彦大神と最初に対面し、
高千穂の峯に至る道を開く御啓行(みちひらき)後、
詔により猿田彦大神と共に五十鈴の川上の地に来られとき、
その功により『猿女君』という称号を授けられ、
その一族は代々朝廷に仕える巫女の一族となりました。
一説には古事記の編纂者の一人である稗田阿礼は、
天宇受売命を始祖とする猿女君と同族の者だったとも言われています。






猿田彦神社本殿の裏手にあり、
毎年5月5日には豊作を祈って早苗を植えるお祭り「御神田祭」が行われます。
桃山時代の衣装をつけた植方が、のどかな田楽に合わせて早苗を植え、
田植えの後は豊作豊漁を占う団扇角力神事や拝殿前の豊年踊で賑わう、
初夏の訪れを告げる伊勢の風物詩となっています。
その祭りの際には神饌として飛魚を献上するというちょっと変わった風習があります。




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▼猿田彦神社(伊勢)▼ - 2015.01.11 Sun






伊勢神宮外宮から内宮へ向かう御木本道路と、
近鉄五十鈴川駅から内宮へと向かう道路が交わる交差点に鎮座しています。
旧社格は無格社(社格がないという意味ではなく「無格社」という社格)で、
第二次大戦後は別表神社となりました。









猿田彦大神は天孫降臨の際に高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を御案内した後、
妻である天宇受賣命(あめのうずめのみこと)と一緒にこの地に戻り、
本拠地の「伊勢の狭長田(さながた)五十鈴の川上」の地より、
ここを始め全国の開拓にあたられました。
本殿は「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な妻入造で、
欄干や鳥居には八角形の柱が使用されています。






神宮第一の古典『皇大神宮儀式帳』や『倭姫命世記』によりますと、
倭姫命が神宮鎮祀の場所を求めてこの地に巡幸された折に、
大田命は天照大御神を祀る地として倭姫命に五十鈴川川上の地を献上し神宮が創建され、
大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し神宮に玉串大内人として代々奉職しました。
その宇治土公の一族は邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦大神を祀っており、
明治時代に入り神官の世襲が廃止されることになった際には、
屋敷神を改めて神社としここに猿田彦神社が創建され、
現在も猿田彦大神の子孫である宇治土公家が代々宮司を務めてられています。









内務省神社局調査では鈴鹿市の椿大神社ということになっていますが、
『倭姫命世記』によりますと宇治土公家こそ猿田彦大神の直系の子孫とされており、
猿田彦神社が伊勢神宮内宮の近くにあることや、
猿田彦大神を祀る各地の神社で椿大神社とつながりのある神社は少数しか存在しないことから、
猿田彦神社が猿田彦神を祀る神社の総本社と考えられる方も多く論争となっているようです。





これは御神殿跡を示す方位石で、
昭和11年の御造営で現在の拝殿の形となるまでまで、
永く御神座がこの場所にあり最も神聖な場所とされています。
ここ猿田彦神社は本殿の堅魚木や欄干に釣灯篭、大鳥居や手水舎の柱など、
八角形をしたものが他にも多くあります。



猿田彦神社の絵馬に描かれるている二人の巫女の舞は「みちびきの舞」という舞で、
明治天皇の皇女・北白川房子様御参拝の時にお歌に作曲、振付をした猿田彦神社独自の舞いです。
「さだひこの 御名いと高し
天くだり
神代の昔 しぬびまつれば」

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▼阿射加神社(大阿坂)▼ - 2012.01.17 Tue





小阿坂町の阿射加神社と同名で『延喜式神名帳』にある「阿射加神社三座」のひとつです。
式内社の阿射加神社は当初阿坂山上に鎮座していおり、阿坂山上から山麓への遷座を小阿坂とするか大阿坂とするかによって説が分かれ、また両社は3座の中の2座で別に1座があるとする説もあります。





当初、御祭神である伊豆速布留神(つはやふるのかみ)は荒神であり、倭姫命の「五十鈴川上之宮」(現内宮)への巡行を阻みます。
そこでかつて阿坂国を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の子孫であり外宮祀官度会氏の祖である大若子命(おおわくごのみこと)が荒神を和ませ祀るとともに神社を山頂に建立しました。





その後、織田信長が阿坂山山頂の阿坂城を守っていた北畠家の重臣・大宮入道含忍斎を攻略する際に、阿射加神社も兵火を罹り社殿と古記録の全てを焼失したそうです。
北畠氏滅亡の後に再建されたとはいえ管理する者もいなかったが、元禄3年に奥村要人という社人が現れたと伝えられています。





両方の阿射加神社はともに阿坂山の東麓の傾斜面に鎮座し、伊勢湾に向い広がる平野を見渡すことができる眺望たいへん良い場所にあります。





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▼阿射加神社(小阿坂)▼ - 2012.01.13 Fri





平安時代初期には県内でも数少ない延喜式内大社格に列せられた古社で『延喜式神名帳』に「阿射加神社三座」とあり、現在では三重県松阪市小阿坂町の阿射加神社と大阿坂町の同名神社がその論社とされています。
伊勢の国において式内社総数253座の内、大社が18座で他の235座は皆小社であり其の大社18座の内、7座は皇大神宮と豊受大神宮そして其の別宮7座、残る4座の内の1座が桑名の多度神社、3座が松阪市の阿射加神社でした。





また御祭神については、猿田彦大神の三つの御魂で、底度久御魂、都夫多都御魂、阿和佐久御魂という説もあります。
主祭神の猿田彦大神は伊勢国の国津神であり、この神を奉る神社では阿射加神社が最も由緒ある神社といわれています。





現在の阿坂町は伊勢湾の海岸から遠く山裾の一部の地名となっていますが、太古に阿邪訶と称したのは一志郡東部の平坦地すべてという広い地域だったようです。





しかし神事は現在でも継承されており、毎年1月14日の夜には囲炉裏で焼いた樫の木の先端を月数を書いた板に押しつけて、その灰の色で各月の天候を占う御火試(おんひだめし)、粥試神事は小豆粥に竹の管を入れ、管に入った米と小豆の量で作柄の豊凶を占う粥試(かゆだめし)の粥占が行われます。
また並行して境内で大ドンド火が焚かれ、その周囲を羯鼓踊りの輪がかこみます。
この阿射加神社境内の御神木である杉の大木は、全てが二本一対となり五対ほどが社殿に向い立っています。





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▼椿岸神社▼ - 2011.11.13 Sun





猿田彦大神の妻神・天之鈿女命が主祭神として祀られており、全国の天之鈿女命の総本宮になります。
「椿岸神社縁起」によれば、この別宮を猿田彦大神を祀る本社「上椿社」に対し「下椿社」と称し、垂仁天皇の御代二十七年本社御創建と共に奉斎された延喜式内の古社です。





相殿には太玉命と天之児屋根命が奉られています。
主祭神の天之鈿女命は天の岩戸開きの神話の中で御活躍された神様として知られ、
鎮魂の神、芸道の神として、芸能を始め茶道、華道、書道と凡ゆる技招ぎの向上、また縁結び、夫婦円満の御守導、の霊験あらたかで古来より信仰されております。





また境内には「扇塚」もあり、古来より神を招ぎ奉るものとして、扇は芸道を志す方の心のよりどころとされ、古くなった扇を感謝の心を込めて、この塚に納めて常に新たな気分で芸の修行・稽古に励むことができるようにさらなる上達を願って参拝します。





また室町時代謡曲「鈿女」が当社に伝わり演能されておりましたが途中で途絶え、四百年ぶりに金剛流宗家によって神事能「鈿女」として復曲され、毎年春の例大祭に演能されています。
質素な猿田彦大神の本殿に対して、ここ椿岸神社は女神様の神社らしく華やかな雰囲気がいたします。





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