▼花窟神社▼ - 2012.01.21 Sat





日本書紀・神代巻上に「伊弉冉尊、火神を生み給う時に灼かれて神退去ましぬ 故れ紀伊国 熊野の有馬村に葬しまつる 土俗此神の魂を祭るには花の時に花を以って祭る 又鼓 吹幡旗(つづみふえはた)を用て歌い舞いて祭る」」とあり、『花窟』の名はこのことより称されています。





古来より花窟神社には神殿がなく、熊野灘に面した約45mの巨巌を伊弉冊尊の御神体とし人為的加飾を極力排した古代の自然崇拝の風を伝えています。
花の窟は他界への入り口であり、その窪みの向こうは死者が赴く黄泉の国へ通じる場所であったと考えられていました。
神社合祀が行われる以前の熊野では、社殿が無く岩や老樹大木を祀っている神社も多くありましたが、現在ではそのほとんどが失われています。





これは花窟神社が神社ではなく、墓所として認識されていたからだと考えられます。
実際に神社となったのは明治に入ってからのことだそうです。





4人の舞姫が伊弉冉尊と軻遇突智尊に舞いを捧げ、日本一長いともいわれる約170メートルの大綱に三旒の幡形や種々の季節の花々・扇子等を結び、45メートル程の高さの御神体の上から境内南隅の松の御神木までわたします。
神社正面に広がる七里美浜は美しく、近くには「獅子岩」や「鬼ヶ城」「中の岩」など奇岩が多く存在しています。





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