▼堅田神社▼ - 2012.11.21 Wed





二見総合支所の前の国道を渡った反対側、音無山の西の麓に鎮座しています。
入口は住宅地の間にあり、すぐ近くに国道が通りますが、
社域内に入るとひっそりとした静けさがあります。









御祭神は江神社に祀られている佐見都比古命(さみつひこのみこと)と共に、
この地を開拓し支配していた国津神です。
倭姫命が二見に来られたときにこの地の国津神である佐見都日女命が、
堅塩を奉ったところ倭姫命がこれを愛でこの地に堅田の社を定めました。
二見から伊勢神宮内宮・外宮両宮御料の堅塩を献上する由来となった神社です。





御祭神の佐見都日女の神名は佐見山や鮫川に由来し、
鮫川という小さな流れは、昔の入江痕と言われています。
堅田神社内の参道脇にも入江後の堀のようなものが残されています。
また鎌倉時代の歌人・後深草院二条はここを訪れ堅田神社についてこう綴っています。
「佐美の明神と申すやしろは なぎさにおわします。
それより舟にのりて、答志の島、御饌の島、通るしま(潜り島)などを見に行く」




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▼御塩殿神社・御塩焼所と御塩汲入所▼ - 2012.11.08 Thu





二又の道を左に行くと御塩焼所と御塩汲入所、
真っ直ぐゆくと二見浦と御塩浜(みしおはま)があります。
御塩浜(みしおはま)は、御塩殿神社に付属する塩田で、
そこには神社ではありませんが黒木の鳥居が設けられています。





粗塩は三角錐の土器の型に入れられ、舞錐で起こした忌火を使って御塩殿内で焼き固めます。
これらの行程を経て得られた堅塩は御塩(みしお)と呼ばれます。
また御塩を御塩殿神社から神宮まで運搬する経路は定められており、
これを御塩道(みしおみち)と呼びます。
清浄を保つために伊勢神宮へ運ぶ途中では、
黒瀬町の橘神社での休憩時以外は御塩を入れた櫃(ひつ)を降ろすことは許されなかったそうです。









御塩汲入所御塩汲入所(みしおくみいれしょ)は御塩浜から運ばれた鹹水を壷で保管し、
隣の御塩焼所(みしおやきしょ)にて鹹水を鉄鍋で煮込み粗塩を作ります。
この一連の作業では平安時代に神宮によって開拓された二見庄に由来する、
「荘」という地名に住む旧神領の住民が奉仕するという伝統が受け継がれています。




御塩殿神社前には文治二年(1186)頃に当地を訪れた鴨長明の歌碑があります。
『二見潟 神さびたてる 御塩殿 幾千代みちぬ 松かげに して』
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▼御塩殿神社▼ - 2012.11.02 Fri





伊勢神宮内宮の所轄社であるこの御塩殿神社には、
神事に欠かせない堅塩を作る施設が備えられています。
御塩殿の読みは神宮では「みしおどの」ですが、地元では「みしおでん」と呼ぶそうです。





または御祭神を塩土翁(しおづちのおじ)であったとする説もあります。
向かって左が神社の社殿、右の大きな建物が御塩殿で、
神社後方の松林の中には御塩焼所と御塩汲入所があります。
この神社の由緒は定かではありませんが、
804年に篇された『延暦儀式帳』には御塩殿と御塩焼殿が記されています。





御塩殿神社は伊勢神宮の神饌として神事に使う堅塩を作る設備を備えた神社で、
古くは社殿を持たず、堅塩を焼き固める作業を行う施設である御塩殿の中に祀られていました。
他に御料地となる神社は伊勢市のとなりの松阪市に、
絹布を調進する神服織機殿神社と麻布を調進する神麻続機殿神社の両機殿があります。





戦国時代から江戸初期までの武家支配と明治維新後の上知令の頃は、
御塩浜が没収され粗塩が作れなくなり御塩殿の運営が困難になりましたが、
神宮は明治10年に御塩浜の土地を購入し、
明治30年には御塩浜と御塩殿神社での御塩調進が再開され、
旧神領の住民が作業を奉仕する伝統が現在まで受け継がれてきました。






御塩殿横の小道から裏手にある御塩焼所と御塩汲入所へ向います。
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▼神前神社▼ - 2011.07.22 Fri





社殿は小井戸口山の山上にあり、ここも伊勢神宮125社の中で最難所の1つです。
まず神社へ至る道が非常に判り難くなっています。
ここに来るときは地図などを用意した方が良いでしょう。





山はとても静かで時々小動物や鳥の音が聞こえ、山道の所々にある「神宮」と書かれた石碑がここが社域であることを教えてくれます。
伊勢神宮では年5回125社すべてで祭りが行われますので、神職の方も山頂まで登ります。





倭姫命が皇大神を奉載してこの地に御遷幸の時、荒前比売命(あらさきひめのみこと)が迎えにでられ定められました。
この神社は元来神前岬の燈台付近にあったそうですが、風潮で危険ため、また祭典にも行きにくい場所なので、 享和年間(森之内浜辺)に移転、さらに文化3年(崖の上)に、明治40年に今のところに移転しました。
古代より海の通行の難所である近海の荒ぶる神の御魂を鎮めるために祀ったとものと思われます。





許母利神社の御祭神は粟嶋神御魂。
荒前神社は荒前比賣命です。
二柱はともに松下の海岸鎮守の神で、もとは海岸近くに奉られていましたが浸水や浸食などで社地を失ったためここに奉られました。





祓島の岩礁は御饌島(みけじま)と呼ばれ明治の神宮改革以前までは、ここで皇大神宮の贄海の神事が行なわれていました。
贄海神事(にえのうみのしんじ)とはここで荒布苔(あらめ)、若布苔(わかめ)を採って皇大神宮の御饌料とする神事です。
▼江神社▼ - 2011.06.09 Thu





『倭姫命世記』によると、
二見の浜に至り堅多社を定めた後、二見から「五十鈴川後之江」に入った倭姫命一行を佐見津日子命(さみつひこのみこと)が迎えます。
そして佐見津日子命がこの川の名を「五十鈴河後」であると教えたことから、その地に江神社を建てたと記されています。





長口女命は、棒原神社に祀られている天須婆留女命の御子神で昴星の子であり、、『倭姫命世記』に神体の形は「水に在り」と書かれているように、水の神様です。
大歳御祖命は五穀の実りの神、宇加乃御玉命は稲魂の神でいずれも農耕に関する神様のようです。





この神社を再興したときに、 旧地がわからずこの「巻江明神」があった地が選ばれました。
なのでこの神社は「蒔絵の明神」とも呼ばれています。
「蒔絵」とは五十鈴川派川の入り江近くにあるため「巻江」と呼ばれていたのが転じたとも、もとは入り江にあり松の木が入り江を巻いて絵のようにあったためとも諸説あります。