▼烏森神社▼ - 2012.05.18 Fri





東京の夏祭の一番手として下谷神社の祭が有名ですが、
烏森神社の例大祭はそれよりも早く 5月の4・5・6日と連休中に、
同じ新橋にある日比谷神社と交互に二年に一回行われます。
四方の蕨手にカラスをのせた巨大な神輿が新橋西口広場を中心に、
大勢の担ぎ手たちによって「千貫神輿」が練り回ります。





社伝によると、平安時代の天慶3年(940)に平将門が乱を起こした時、
大ムカデ退治で有名な藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、
白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えます。
その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、
秀郷はお礼に一社を勧請しようとした時、
夢に白狐が現れ「神烏の群がる所が霊地」と告げたそうです。
そこで桜田村の森まできたところ、夢で見た烏が森に群がっていたので、
そこに社頭を造営しました。
それが烏森神社の創始になります。





古来、この辺りが武蔵国桜田村と呼ばれていた時代、
この地一帯は江戸湾の砂浜で松林がありました。
そのため当時は『枯州の森』あるいは『空州の森』と言われていたそうです。
しかもその松林には烏が多く集まり巣を作っていたため、
後には『烏の森』とも呼ばれるようになりました。
それが烏森という名の由来になります。





普段はひっそりとした静かな神社ですが、
例祭の時には神社前に大神輿が練周り、大勢の人で賑わいます。
柳森神社・椙森神社とともに江戸三森の一社と称される烏森神社は、
江戸時代にも稲荷祭として一・二を争う賑わいであったそうです。






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▼椙森神社▼ - 2012.04.02 Mon





創始は社伝によると平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をし白銀の狐像を奉納したのが始まりといわれています。





室町中期には太田道灌が雨乞い祈願のために山城国伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰し、江戸時代になると福徳・商売の椙森稲荷として江戸庶民の信仰を集め、江戸三森に数えられるようになります。





境内には、当社で行われた富興行をしのんで大正8年に建てられた富塚の碑が鳥居の脇にあります。
社殿は関東大震災で全焼し、昭和6年に耐震構造の鉄筋入りで再建されたものですが、江戸時代より境内地は変化なくここに鎮座しています。





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▼柳森神社▼ - 2011.09.20 Tue





境内は道より低くなっていて階段で降りたところに鎮座しています。
周りはビルやマンションに囲まれ川の向こう側には秋葉原電気街がありますが、神社境内はそれを感じさせない静かな一角となっています。





境内社として金比羅宮、秋葉大神、明徳稲荷、福寿神も奉られています。
柳森神社は長禄2年に太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請し鎮守として奉られたことを創祀とします。
椙森神社、烏森神社と共に江戸三森の一社と呼ばれます。





「おたぬき様」と呼ばれ「他抜き(たぬき)=他に抜きんでる」という意味をかけ、立身出世や勝負事・金運向上の利益があるとして江戸時代には商売繁盛の神として非常に賑わいました。
当初は江戸城内に奉られていましたが、後に旗本の瓦林邸内に移され、明治に柳森神社で奉られるようになりました。





富士山に見立てた塚を信仰する、富士講にかかわる記念碑の「富士講関係石碑群」
といった千代田区指定有形民俗文化財が数多く残されています。
神社自体は狭いですが境内を覆うかのような御衣黄桜など見所は多い神社だと思います。





都会に残された数少ない土や緑を感じられる静かな場所です。
周辺の野良猫たちにも人気の様子です。

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